浅間温泉の歴史
名前の由来
一般的に浅間温泉は、平安時代の天慶2年(939)土地の豪族犬飼半左衛門によって発見され「犬飼の湯」と呼ばれた…とされており、また、中世の「吾妻鑑」文治2年(1186)の頁に浅間社の名が記載されていますので、たぶん1000年頃に浅間温泉と呼ばれ初めたのではないかと思われます。
金銅天冠
昭和30〜32年にかけて、大場博士の指導のもと浅間温泉内にある桜ヶ丘古墳の発掘調査が行われました。
5世紀末と言われるその古墳からは、天冠・竪櫛・勾玉・丸玉・小玉・臼玉・直刀・鉄剣・鉄鉾・鉄鏃・衝角付冑・短甲・頸甲と多くの装飾品等が出土し、中でも金銅製の天冠は県の文化財に指定されています。(松本市考古博物館蔵)
この三山冠と呼ばれる天冠は、県内はおろか国内での酷似品も少なく、朝鮮から渡来した人のものと推定され、その事実からしても、5世紀には有力な渡来人たちが浅間温泉を中心に生活を営んでいた事がうかがえます。

▲画像にマウスを合わせると金銅天冠の復元模型画像に替わります
御殿湯
江戸時代に入ると、浅間温泉には初代松本藩主石川数正により「御殿湯」が置かれ、その初代湯守には、石川数正の三男康次の子である石川昌光が就任しました。
同時に、城主や臣下の武士たちの別邸が建ち並び、この頃より浅間温泉は「松本の奥座敷」と呼ばれることになります。
現在、この御殿湯の詰所跡が枇杷の湯として残っています。

枇杷の湯
アララギ派発祥の地
近年、浅間温泉は多くの文人墨客に愛されるようになり、特に正岡子規や伊東左千夫からなるアララギ派発祥の地として知られ、与謝野晶子、竹久夢二ら多くの文人墨客が訪れて、この地で優れた作品を残しています。
今でも、桜ヶ丘公園の伊東左千夫の詩碑や、神宮寺の与謝野晶子の歌碑等々に、当時の面影を見出す事ができることでしょう。

与謝野晶子歌碑

正岡子規
昭和絵葉書に見る浅間温泉
昭和30年代中頃と思われる浅間温泉の全景です。また大型建築物もなく、温泉街の道筋がはっきり解ります。
写真上の左右に走る筋が女鳥羽川で、右中ほどが浅間線終着駅で浅間温泉駅で、その路線より右側(北側)には田地が広がり、現在ある住宅街も見当たりません。